文芸・思想専修の学生たちとともに

 JW. Jの会の皆様、お元気でお過ごしでしょうか? コロナの影響もあって、東京にある大学の授業はほとんどがオンラインになっています。ただ、私が受け持った立教大学の秋学期(9~1月)の演習(ゼミ)だけは、例外的に「対面」で行われました。というのも、「本をつくる」という編集実践の授業だったからです。私の前職(筑摩書房)での経験を生かして、文学部文芸・思想専修の学生たちに編集作業とは何なのかを講義せよ、という趣旨でした。

 その授業は予想以上にうまくいき、充実感をもって終了しました。近況報告がてら、その授業でつくった本の「編集後記」に寄せた拙文を掲載したいと思います。

テクストを文脈づけること

「編集とは何かを学びながら、実際の出版物をつくってみる」。この演習は、こうした趣旨で委嘱された。引き受けてはみたものの、大教室の授業(思想史)ばかりで小人数の演習を経験したことのない私は、思わず頭を抱え込んだ。そもそも、編集について教えることなどがあるのだろうか? あるとして、それはどういう形をとるべきなのか? さまざまな思いが去来し錯綜する。

 そのとき、ある仕事が脳裏をかすめた。私の編集経験のなかでも極めつきの本。もう四半世紀も前に編集した思い出の『小さなものの諸形態』(一九九四年)である。著者の市村弘正さんとは小さな読書会で知り合った。私が二十七歳、市村さんが三十五歳、四十年前である。その後のお付き合いのなかから、十数年後にこの本が生まれた。寡作の著者の一冊を手掛けることができることになった興奮を、いまでも昨日のことのように思い出す。

 市村さんが書いていたエッセイをまとめて、一冊の本にするという共同作業が始まった。市村さんが折にふれて発表するエッセイには、そのたびに目を通してはいた。だが、単行本をつくるための精神の働かせ方は、個々の原稿に対するのとはおのずと異なっていた。編集においては、全体を文脈づける作業こそが枢要な位置を占めるからだ。

 先に「編集について教えること」と書いた。編集者はテクストに真摯に相対さなければならない。しかし、それは一般読者でも大学教員でも、また学生でも同じことだろう。生の原稿を文脈づけて読者に提供すること――この作業だけは編集者に固有の経験だ。そこで腹が決まった。この演習ではテクストをきちんと読むこと、そして、そのテクストを個々に編集して自分だけの目次をつくること、その二つが目標として掲げられた。


「古い言葉」のアクチュアリティ

 こうして、学生たちはテクストと正面から向き合っていった。彼らの書いた「編集後記」に、その格闘の痕跡が残されている。きちんと読むためには、それに応答してくれるテクストが必要になる。このエッセイがそうした資格を十二分にもっていることは分かっていたが、なにしろ四半世紀前に書かれたものだ。学生たちには、この間の時の流れを意識するよう求めた。この文章が表現している時代(学生たちが知らない時代)といまの時代との間で、何かが決定的に変わったのかどうかだ。いまの時代がこのテクストを要請するのかどうか、と言っても同じことだ。

 結論から言えば、このエッセイ群はアクチュアルなものとして読まれたと思う。学生たちは「いっこうに古びない『古い言葉』」(「考える言葉」)をそこに見出していた。なんとなく不全感を共有しながら、「垂直に」ではなく「水平に」おちる(「落下する世界」)時代を、彼らなりに感得していたのかもしれない。新しさが永遠回帰する時代の宿命のようなものだ。そして、学生たちにとってけっして平易ではないこのエッセイ群が、理解を拒絶しないよう注意深く書かれていたことをあらためて痛感した。「分かったところまで書く」というエッセイの思想が、「分かったところまで分かる」ということを許容してくれていたのであろう。

 目次づくりは、苦しくもほんとうに楽しい作業だったと確信する。本のタイトルと同名のエッセイ「小さなものの諸形態」を冒頭あるいは末尾に置く、ということだけを条件とした。参加した十三名がそれぞれの目次を持ち寄り、その編集の趣旨を発表した。目次はもちろん十三通りできあがったが、それだけの数の本をつくる予算がない。そこで、「小さなものの諸形態」だけでなく、比較的長大なエッセイ「文化崩壊の経験」「家族という場所」「経験の『古典』化のための覚え書」をどこに配したかで、結局五種類の本に収束させた。

五つのグループごとにワイワイと話し合いが行われた。一つの目標に向かって言論が飛び交う。コロナ禍のなかでの数少ない対面授業ゆえか、教室がにわかに活気づく。公共空間が生まれ始めていた。それまで硬かった学生たちの態度が、このときはじめて和らぐのが分かった。


本づくりのスペシャリストたち

 装丁を担当する神田昇和さんには、何回か授業に足を運んでいただいた。神田さんは学生たちの希望にじっくりと耳を傾けて、それを紙面に反映させる努力を惜しまなかった。もともと、編集者や著者の言うことをよく聞いてくれるデザイナーである。そうした基本姿勢は学生に対しても平等に貫かれた。

当初、装丁は一種類とし、グループごとに色分けでもして済ませるつもりだった(もちろん予算に限界があったから)。だが、神田さんは結局、学生の数だけ、十三種類ものカバー、表紙、本扉を仕上げてくださった。学生たちの注文をもとに、なんと五十四種類ものラフ・プランが提出された。採用されたのは比較的おとなしいものと、反対にきわめて個性的な(注文通りの)ものに二分された。無駄働きをいとわない神田さんの姿勢に、感動を禁じえなかった。

オビも固有のものが付けられることになって、学生たちのこの本への独自の向き合い方が生き生きと表現される結果となった。彼らが自分だけの揺るぎない主張と嗜好をもっていることにも、あらためて驚かされた。神田さんとは前職在籍以来のお付き合いだが、その友情にあらためて感謝申し上げたい。

 組版をつくってくださったのは、松本田鶴子さん。学生に一から版面指定をさせて文字を組み上げるのはもとより無理というもの。そこで、オーダーメードをあきらめて、カスタムメードにした。組版を六種類用意して、学生たちに選ばせることにしたのだ。この選択においても、学生たちの強い好みが反映していたように思う。結局、三種類の組版が採用された。松本さんは縁の下の力持ちだが、なくてはならないパートナーだった。ほんとうにありがとうございました。


市村弘正さんへ敬意と感謝をこめて

 最後に、市村弘正さん。この演習で作品を再編集することに快諾をいただきました。感謝に堪えません。

思い出すのは、この本の目次を二人ではじめて検討したときのこと。何度も何度もテクストを読んで、どうにかこうにか仮目次を仕上げて検討に付したのだが……。私の説明をひとしきり聞いた市村さんは、「ちょっと文脈をつけすぎですね」と応じた。そして、やり直した第二案が採用された。こうした原初的な経験があったからこそ、学生たちにも同じ経験をさせてみたい、と考えたのだろう。文脈を受容するのはあくまで読者であって、読者を信じなければ本は成立しない。大事だが、じつは基本的なことを学んだ瞬間だった。市村さんには学恩を被るばかりで、なかなかお返しすることができないでいる。

 テクストを読むことで得るものは少なくないが、こうして本というモノが手元に残ることにはまったく別の意義がある。学生たちが何年か先にふたたびこの本を開くとき、みずから思考したかけがえのない瞬間が想起されるかもしれない。そのとき、モノのなかに――モノとなって――封じ込められていた言葉がふたたび命を得て、新しい意味を開示してくれることだろう。そうした夢を、この本たちに託したい。著者が「物質的想像力」(「『残像』文化」)、「物化された経験」(「経験の『古典』化のための覚え書」)と呼ぶものの一端が、手づくりの本という小さなメディアにおいて実現する夢を、である。

 立教大学文学部文学科文芸・思想専修の学生たちとともに

二〇二〇年十二月      熊沢敏之 

JW. Jの会

故渡邊二郎先生を慕う哲学の会。渡邊先生は東京大学文学部、同大学院で学び、成城大学助教授を経て、東京大学文学部助教授時代にハイデガーの思想研究のためドイツ・フライブルク大学に留学。東京大学名誉教授、放送大学名誉教授。

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