第4章のレジュメになります。/矢野
第4章 『自然の生命の大切さ』
〜文明と自然との関係はいかにあるべきかを根本的に考え直すとは、
「いかなる態度で自然と関わるのか」という倫理の問題である〜
「生命論的自然観」の考察
『自然』の原義ーおのずから生きて働く作用、生命の活動、いのちの横溢の漲ったものという意味である
- ピュシス(Physis)/ギリシア語ピュオー(Phyo):生み出す、成長する、おのずと成っていくという動詞に由来する
- ネイチャー(nature)/ラテン語で自然を表すナトゥラ(natura):ラテン語の生まれる、成長する、発現する、創り出される、由来するという意味を持つ動詞に由来する
- 自然:東洋的自然観に基づく日本では「じねん」と読まれ、おのずと、ひとりでに、ありのままに、発現し展開する働きと考えられていた
このように機械論的自然観が確立する以前には、洋の東西を問わず、自然とはみずからのうちに始源を持って生成変化する生き物、人為を越えて生きて働く活動、おのずとひとりでに発現し展開する働きという態度で自然を考え、それらを尊ぶという態度で考えられてきた。
こうした生命ある生きた自然という見方の上に立ち、人間もそのうちの1つの生き物として産み落とされ、生かされている被造物として大自然を仰ぎ見、生命への讃美と愛、感謝と喜びという情感や生命論的な思想と倫理が生命論的自然観にあった。
しかし、そうした考え方がわきに押しのけられ、見失われる結果をもたらしたのが、近代の実証科学の成果である。
『したがって、近代の実証科学は、実は、生きた自然観を背景にして生まれた、親殺しの恐ろしい子供だったのである。この近代科学とその応用としての現代技術が、やがて、既述のように、誤って、機械論、唯物論、決定論、ニヒリズムの意識を蔓延させ、ついには現代に至って、自然の支配と搾取を目指すその問題的傾向性から、荒廃した自然環境を招く要因とさえなったのである。』
(渡邉二郎『現代人のための哲学』 ちくま学芸文庫 p.86 l.13~p.87 l.3)
自然の不条理
〜自然は天変地異や災害を起こし、ときに人間生活に襲いかかり、破壊する威力を持つ
- 弱肉強食の無惨な理法
- 適者生存の残酷非道な法則
これらの原則は、生きた自然を、恐ろしい殺戮の修羅場と闘争場に変質させていると表現できうるものである。実際私たち人間も他の植物や動物を食し、自己の体内でそれをエネルギーへと転換させ、自己増殖を図る生物であり、生存競争の原理に貫かれた自然界の一員であると認めざるをえない。このような恐ろしい自然の実相は、人間という内なる本質がなんであるかという問題意識を持って、その存在者の内側の本性の問題として現れることになった。
『すなわち、生きた自然のあり方は、そのまま人間自身のあり方のうちに跳ね返ってきて、その生き生きとした活動のうちに見事な表現を呈示してくるが、そればかりでなく、実は、恐ろしい自然の姿も、人間のうちに、その実相を顕わにして出現し、こうして自然の問題は、人間の内なる自然、すなわち人間本性に付き纏う、罪悪の可能性という厄介な問題に転化する。』
(渡邉二郎『現代人のための哲学』 ちくま学芸文庫 p.92 l.7~l.11)
自然と人間の本性についての考察
―人間の内なる本性と自然状態について
*ホッブズとロックの主張の対立および性善説と性悪説についての例をみる
〈ホッブズの主張〉
人間の本性は、利己的な野望の追求にあり、他者排除の闘争本能を持つ
→絶対的権力をもつ国家に服従する契約が必要
〈ロックの主張〉
自然状態における人間は、自由に生存し、平和的に相互に共存して生きる
→他者との連合や連帯に重きを置く社会契約によって、民主的な統治形態が可能である
〈孟子の性善説〉
人間は生まれながら良知良能が備わっており、「*四端の心」を拡充し、個人の徳を成立させ、天下国家も治まる
〈荀子の性悪説〉
人間は元来悪であり、他律的に規範を定め、礼儀を教えることで道理を知り、世の中も治まる
*こうした考え方の対立の根底には、自然に対する見方の違いがあり、美しい生命あふれる自然の恵みを讃美し、それに調和的に参与することに人間の本性があると見るか、恐ろしい弱肉強食の無情の生存競争を自然の実態として、それに関与している人間本性の不可避の罪悪を承認せざるをえないとする見方の違いがある。
→自然自体も人間の内なる本性も、この善悪両面性を持つ
人間の問題は自然の問題であり、自然の問題は人間の問題であると見定められねばならない
・「自然の懐に抱かれて生きるべき?」- 平和的な共生共存の原則
・「自然を制圧し征服すべき?」- 闘争に基づく生存競争の原則
いずれの原則をとるべきかの岐路に立たされているのが現代人である
「外なる自然、内なる人間の本性も恐ろしい危険が存在していると同時に、育む自然もあり、その大切さをわきまえつつ、人間の中にも良き本性を宿していると考える」
―これを原点に置くことが大切
【人間の真相を考える】
ホッブズは、人間を性悪の利己的な存在者と見、自然法に則って主権国家に服従する契約を結ばねばならないと説いたところのうちに、人間にはそのような理性的な生き方を選びうる、本質的に性善の要素があると承認していることを明示している。
ロックの場合は、平和的共存を喜び、自然状態において性善の生き方をしているとみなしながらも、時にそれが破られる可能性を認めたがゆえに、社会契約を結び、民主的社会を構成しなければならないと説いたからには、彼がやはり、人間のうちに自然法を破る性悪の要素を承認している事実が垣間見える。
孟子は、寡欲を主張したが、それは人間は物欲にとらわれると悪が生じることを看取っていたからであり、荀子はそもそも社会規範や教育が必要とみなすところに、人間が自らを改良しうる性善の要素があるからととらえていることが明示されている。
このように、本当の全体的真理は、善悪を合わせたところにあると考えねばならない。これらの諸説を踏まえれば、自然および人間本性のうちには、元々善へと向かう要素が最初から容認されているが、途中何らかの理由によって、攪乱歪曲されることから、悪や罪への堕落が現れる。しかし根本的に、再び善へと向けて修正し改善され、こうして高い意味での善の出現が可能であるとみなされている。つまり、自然や人間のあり方のうちに、より良いものへ向けての運動や発展、激動的な展開や生成などの本質的可能性を見るという考え方が示されている。
近現代における生命論的自然観の復権とその運動の例
・18世紀末から19世紀初めにかけてのドイツのロマン主義の思想運動
・シェリング、シュレーゲルにおける生命思想
・ハイデッガー、ヤスパースの主張した科学技術を越えた存在の真理、人間と世界の実存的真相への熟慮
・ベルクソン『創造的進化』/ホワイトヘッド『過程と実在』:生きた有機的自然観
・モノ(分子生物学者)/『偶然と必然』:偶然性を含む生命の発展
・プリゴジン(物理化学者)/『混沌からの秩序』:非平衡的開放系における散逸構造論
[結論]
「生きた自然」は、そのうちに、「恐ろしい自然」を含みながらも、「あるべき自然」へと向けて展開されるべき運動と構造において存在する。このあるべき自然と言うところには、人間の関与が必要である。私たちは、「あるべき自然」に対して、いかに考える「べき」であるのか、私たち自身の自然への関わり方の根本が問われており、高貴な理念を目指す自由な存在者であり、善へと向けて行為する人間として、善を願い、善の実現を望む心こそ、存在と生命を支える根本思想でなければならない。
「いかなる態度で自然と関わるのか」という問いは、「人間が自然に対してどこまで許されているのか」を問い直す、倫理的テーマである。
現代における自然と人間の関わり方についての基本的論点
- 被造物として、共に生かされている存在であるという慎ましさが必要
- 「自然」が許す限りにおいて、いかように手を加えることが可能なのか?
上記2つについての熟慮と節度が必要で、これをわきまえる努力ができるのが人間であり、その人間の善性を信頼することが大切である。
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